中年、無職、写真を撮る

ささやかな人生の、通り過ぎていく日々を記録する。

作家の努力


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伊坂幸太郎氏の小説を長らく読んでいなかったのだけれど、先日図書館で「グラスホッパー」単行本を借りて読んだ。

最初に書いておくけれど、本当に面白かった。売れるのも納得で、この著者の他の小説も是非読みたいと思わせる内容だった。

しかしながら、実は、小説冒頭、まさに最初の段落の日本語で私は躓きかけたのである。わかりにくい、と思った。わかりにくいということを理解せず読み流す人が多いのかもしれないけれど、少なくとも私にとってはわかりにくい日本語だった。

図書館に返却してから、日本語に煩い知人とその感覚を共有したいと思い、Kindleで文庫版「グラスホッパー」をダウンロードして驚いた。何かが違う。すんなり読めて、生き生きと情景を想像できる日本語になっているのだ。

どのように書き換えられたのか知りたくてまた図書館に行き、確認したらまた驚いた。かなり大きく書き換えられているのだ。

ちょっとした感動を覚えた。伊坂幸太郎氏ほどの売れっ子作家であっても、おそらく言葉の一つ一つに悩み、文章が世に出たあとも推敲を繰り返してより良いものにする努力を続けている。

あぐらをかくことなく研鑽を続ける伊坂氏の姿勢は尊敬に値するし、そのような真摯な姿勢が彼に今の地位をもたらしたのだろうと思う。彼に才能があったのは当然としても。

後悔は積み重なる

遠方で一人暮らしをしていた叔父が亡くなった。いわゆる孤独死だった。

幼いころはかわいがってもらったのに、疎遠になっていたことをいまさら悔やんでいる。ありがとうを言えるあいだに伝えておかないといけないとわかっているのにできない。そして後悔は積み重なる。

 

幼いとき、自転車に乗れるようになったのがうれしくてあちこちへ行った。ある日、自宅からそう遠くないところだったけれども、自転車で転んで一人で盛大に泣いていた。すると制服を着たお姉さんが通りかかり、僕のそばに来て、大丈夫?と声をかけてくれた。ほっとした僕はいったん泣き止んだ。

ところが、かがんで僕を慰めてくれるお姉さんの胸元に大きな青い痣が見えた。こともあろうに、それまでそんなものを見たことがなかった僕はまたわんわん泣き出してしまった。

その後のことはよく覚えていない。泣きながら逃げるように自転車で家に帰ったと思う。ありがとうも言わずに。お姉さんはどんな表情をしていたのだろう。いったい何を思ったのだろう。

幼いころの無邪気な残酷さが、あのやさしいお姉さんにどんな傷を与えたのか、今となっては知る由もない。

記憶が残り続ける限り、後悔は積み重なる。

夕焼けの条件

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美しい夕焼けを見たことがない人はほとんどいないと思う。しかし実際のところ、ちゃんと見たことがある人は本当に少ない。

 

夕焼けがなぜ赤くなるのか、Google先生に尋ねてみたらいろいろなサイトを紹介してくれる。

太陽から地表に向かって矢印が伸びている図とともに、青い光が拡散しやすいことなとがもっともらしく書かれている、そういうものがすぐに見つかる。

けれども、それらの多くは、実際に夕焼けをちゃんと見ないで書かれている。

 

夕焼けは空でも太陽でもなく、雲が赤くなるのだという一目瞭然の事実に、ほとんどの人は気付かない。

さらに言えば、夕焼けが赤くなるのは太陽が沈んだあとだということも、ほとんどの人は知らない。

 

赤く染まるような美しい夕焼けは、日没後、地平線の向こうに沈んだ太陽が雲を照らすことによって生じる。

そのことをちゃんと書いているサイトは少ない。

 

Googleで「夕焼け」を検索して出てくる画像はほぼ全て、空ではなく雲が赤くなっているはずだ。雲ではなく空が赤くなっている写真があるとしたら、それは加工されている。良く晴れた日の雲がない空は、地平線すれすれのところが黄色からオレンジ色に変化するだけで、美しい夕焼けにならない。

 

誰もが見ていたはずなのに、気づくことはない。世の中にそういうことはたくさんある。

 

砂場あそび

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荒れ果てた両親の家の庭の片隅に、かつて砂場だった場所がある。

砂遊びが大好きだった私の息子のために、父が作った。

レンガで囲われた小さな砂場は、息子のお気に入りの場所だった。使い古しの鍋やジョウロで時間を忘れてよく遊んだ。

 

あれから10年近い時間が過ぎた。

両親がここで暮らす時間はおそらくほとんど残されていない。

幸せだった日々は平等に過ぎ、そして忘れられていく。

 

人生は捨てたもんじゃない、そう思う。しかしそれでも、人生は残酷だ。

あじさいの花

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花が好きだった母が元気なときに植えたあじさいの花がいま庭のあちこちに咲いている。

母の手を引いて見に行ったら、綺麗ねと言って嬉しそうにしていたけれど、もちろん花の名前は思い出せなかった。

両親がいなくなったあと、この庭をどうしたものか、どこまで管理できるか心許ない。

なにもかも不安で仕方がない。

神秘体験

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地下鉄サリン事件で逮捕され、その後死刑執行された広瀬健一という男がいる。

彼のことはWikipediaにとても詳しく記述されている。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E7%80%AC%E5%81%A5%E4%B8%80

多くの人命が奪われ今なお後遺症に苦しむ被害者もいるので、言葉を選ばないといけないのだけれど、少なくとも、私は自分のことを彼より善人だなどとは思えない。私は捕まってはいないけれど、条件が揃えば彼と同じようなことをしでかしたかもしれないという恐怖が、私の中にはある。

彼を含め多くの場合、オウム真理教に傾倒していく過程に神秘体験があった。

マントラを延々と唱えたり、断食したり、水中クンバカをやったりという修行の他にも薬物を使うこともあったとされているけれど、とにかく彼らは我々の日常とは異なる精神世界を見てしまった。

実は私は宗教とも薬物とも関係なく、おそらくそれに近いであろう精神状態を一度だけ経験している。

くわしくは書けないけれど、世界が光り輝くような、圧倒的な幸福感だった。私は唯物論者なので、これはやばいなと思いつつも、おそらく脳の何処かにスイッチがあるのだと理解した。たとえば違法薬物なんかはこういう状態を人為的に作り出すことができるのだろうと。

けれどもこの状態を、例えば宗教の道場で修行中に体感してしまったとしたら、私なら信仰の世界に転んでいたはずだ。おそらく教祖のマインドコントロールに抵抗するすべを私は持たなかっただろう。

広瀬健一と私は何が違ったのだろう。

答えはないけれど、善良な市民のふりをして今日も私は生きる。

肩書と学歴

振り返ると、出世や肩書にこだわる人を、私はおそらく心の何処かで馬鹿にして生きてきた。

そういう人の多くが実力以上の評価を求めているように私の目に映ったということもあるけれど、根本的には私の驕りがあったのだろうと、今は思う。

 

私は、何をやってもそれなりにできる、飲み込みの早い子供だった。受験もうまいこと乗り越え、世間的には難関とされている大学にすんなり合格して、卒業した。

難易度的には地域トップではなく2番目の大学だったけれど、それでも、日本は紛れもない学歴社会で、自分がその恩恵を蒙る側だったのだと思い知った出来事がある。

私はいわゆる就職氷河期世代で、企業が新規採用を絞っていたため、学生が企業に資料を請求しても断られる、そういうニュースが報じられていた。にも関わらず、リクルートだかどこかの、自宅に届いた資料請求ハガキに出来心で大学名諸々を書いて返送したら、段ボール箱2箱分、錚々たる大企業の採用申込資料が(もちろん無料で)どっさり届いた。ニュースと全然違うやん、と思った。

真面目に就職活動をするような人間ではなかったので、その大きなアドバンテージを活かすことはなく卒業後もブラブラしてしまったけれど、あのとき大企業に就職しておけばよかったとは思わない。どうせすぐ辞めてる。

 

冒頭の話に戻ると、肩書を求める人を、もちろん格好良いなどとは思わないけれど、私もまた本質的には彼らと変わらないのだろうと今は思う。田舎では履歴書に書かれた私の出身大学はそれなりに目をひく。それで感じる居心地の悪さもあるのだけれど、それだけで一目置かれるという安心感が心の何処かにあったことを、今は認めるしかない。若い頃は、自分にはなんでも出来るという自信があったし、実際にいろんなことをできたから、学歴から得られる優越感を意識せずに済んでいた。けれど歳を重ねて色々なことが衰えて、やれないことが増えてきたときに、学歴を評価されて喜んでいる自分がいた。みっともない。私に学歴がなければ、満たされていなければ、きっとそれに代わる何かを彼らと同じように求めていたのだろう。

 

ええ歳したみっともない大人の一人として、残りの人生をより良いものにできるよう、ささやかな日々を生きたいと願う。