ありがとう

特養で暮らす母は肌色も良く、穏やかにしているけれど、「ありがとう」と呼びかける私と目が合うことはほとんどない。どこかよく分からないところを見つめてじっとしている。
それでも、聴こえていると信じて、母が好きだった音楽を流してみる。
私は両親に愛されて育った。母への言葉は多分もう届かないけれど、まだ会話ができる父に精一杯の感謝を伝えて、日々を過ごしている。
長生きすることへの恐怖

両親が認知症になったとき、私は自分の将来を突きつけられたような気がした。私もまた、生きていればいずれわが子の名前を忘れ、我が子に尻を拭いてもらうことになるのではないかという気づきは、間違いなく恐ろしいことだった。
認知症判明から数年が過ぎ、母はもう私が誰か分かってはいない。会話が成立しないのはもちろん、呼びかけに反応することさえ少なくなった。こうなる前に伝えるべきことがあったのではないかという思いは強く、おそらくその後悔が、日々母にありがとうを伝える動機になっている。そして、たまに絞り出すように母がありがとうと答えてくれるとき、確かにそれは幸せなことだと感じる。
私が自らの老いに直面するとき、私はきっと、この母の姿を思い出すだろう。私は今もなお母から大切なことを教わっている。
声を聞く

父母と過ごした時間を思い出す日が来ると思うので、二人の写真を撮るようにしている。
先日、故人の声を聞きたいという人の話を読み、動画も残すことにした。
母の状態は日々微妙に変化する。能面のように黙して語らない日もあれば、かつてのようににこやかな日もある。今日は機嫌よく、呼びかけにもしっかり応えてくれた。



