中年、無職、写真を撮る

ささやかな人生の、通り過ぎていく日々を記録する。

肩書と学歴

振り返ると、出世や肩書にこだわる人を、私はおそらく心の何処かで馬鹿にして生きてきた。

そういう人の多くが実力以上の評価を求めているように私の目に映ったということもあるけれど、根本的には私の驕りがあったのだろうと、今は思う。

 

私は、何をやってもそれなりにできる、飲み込みの早い子供だった。受験もうまいこと乗り越え、世間的には難関とされている大学にすんなり合格して、卒業した。

難易度的には地域トップではなく2番目の大学だったけれど、それでも、日本は紛れもない学歴社会で、自分がその恩恵を蒙る側だったのだと思い知った出来事がある。

私はいわゆる就職氷河期世代で、企業が新規採用を絞っていたため、学生が企業に資料を請求しても断られる、そういうニュースが報じられていた。にも関わらず、リクルートだかどこかの、自宅に届いた資料請求ハガキに出来心で大学名諸々を書いて返送したら、段ボール箱2箱分、錚々たる大企業の採用申込資料が(もちろん無料で)どっさり届いた。ニュースと全然違うやん、と思った。

真面目に就職活動をするような人間ではなかったので、その大きなアドバンテージを活かすことはなく卒業後もブラブラしてしまったけれど、あのとき大企業に就職しておけばよかったとは思わない。どうせすぐ辞めてる。

 

冒頭の話に戻ると、肩書を求める人を、もちろん格好良いなどとは思わないけれど、私もまた本質的には彼らと変わらないのだろうと今は思う。田舎では履歴書に書かれた私の出身大学はそれなりに目をひく。それで感じる居心地の悪さもあるのだけれど、それだけで一目置かれるという安心感が心の何処かにあったことを、今は認めるしかない。若い頃は、自分にはなんでも出来るという自信があったし、実際にいろんなことをできたから、学歴から得られる優越感を意識せずに済んでいた。けれど歳を重ねて色々なことが衰えて、やれないことが増えてきたときに、学歴を評価されて喜んでいる自分がいた。みっともない。私に学歴がなければ、満たされていなければ、きっとそれに代わる何かを彼らと同じように求めていたのだろう。

 

ええ歳したみっともない大人の一人として、残りの人生をより良いものにできるよう、ささやかな日々を生きたいと願う。